神学部の「分厚い記述」

 先日,現在いる神学部の学位授与と科目履修登録ガイドラインを読んで,つい腰を抜かしてしまった。この神学部では伝統的なアカデミックな学位である哲学博士と文学修士のほかに,1年間の短期で取れる宗教学修士,そして3年かけて取る,宗教家の最初の学位の神学修士を出している。ぱっと見,なんの変哲もない大学院のカタログだったが,ある文章に目が止まる。

「神学修士のプログラムはキリスト教ユダヤ教,仏教,ヒンドゥー教イスラーム,そして無神論ヒューマニストを含む広い範囲の信仰コミュニティからの生徒を受け入れている」(Divinity School Announcement 2018/2019, p.3)。

 おい,ちょっと待てよ,と。

 世俗的なヒューマニストがどうして,そしていかなる整合性を持って「神学修士」の学位をとるというのか。確かに信仰の多様性を崩すことはどの宗教にも許されない。しかし,さすがに無神論の人が教会で説教するというのは,以前の私の感覚にすれば悪い冗談な気もする。

 とはいえ,この疑問は深掘りする余地がある。神学は信仰そのものというよりは古い学問の様式であるし,それが無信仰の者が決して扱えない学問というのならば,学問の普遍性に悖る。

 かたや,科学的な学問である比較宗教や文化人類学アプローチは依然としてある。

 いま,神学が他の学問にカヴァーされないこととはいったいなんだろうか。神学はいったいどういう思考様式を体現するのか。

 私はこういったことも知らずに神学部に来月1日に入学する。

 

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 まず奇妙な問いから入ることとしよう。わたしが学部で宗教を専攻して以来,抱き続けている疑問である。それは「何かの当事者であることは,学問の探究に何か寄与するのだろうか,」というものだ。

 反例は数知れず多い。日本語に流暢な外国人が日本の大学生に日本の古典文学を講じたり,日本人がホロコーストを深く知ったりする意義は底知れない。あるいは男性が女性学を学ぶのはどうだろう。異性愛者がクィアスタディーズを専攻するのはどうか。1945年,広島に落とされた原爆について,ロシア連邦の政治家がアメリカ合衆国の政治家に反省を求めている構図はどうか。

 もしも,リベラルな学問を名乗るならば,これらはすべて可能であり,なんら咎めを受ける理由がない。好奇心あるいは正直な信仰心にしたがって学界に貢献すればよい。

 でもこういう声も聞こえてきそうになるものである。

「当事者でもないのに,何がわかるんだ。」

 考えてみれば,今は鬱になったことがない精神科医が鬱について論じて治療法を模索するし,離婚したことない法律専門家が離婚裁判をする,という構造は社会にありふれている。

 

 当事者という概念もまたあいまいであると思う。私が渡米する前,私の周りの高齢の方々がアメリカは原爆を落とした国であることを盛んにわたしに伝えてこられたし,今だにそのことを断罪するべきだという識者は数多い。

 当然ながら,そのことを私も強烈に意識して歴史の議論に参加するけれど,私がその原爆投下時に生きていたわけではないし,口が裂けても当事者のような経験をしたとはいえない。

 強いていうならば,日本国籍であるということ。日本の義務教育では私もドメスティックな歴史と日本国憲法の授業を受けた。日本社会に溶け込むために歴史や公民分野の公教育はあったけれど,それを受ければ誰もが日本人という当事者になるわけではない。

 だが日本史,あるいは日本における「世界史」を念頭において,外国に飛び出したとき,はじめて日本人というアイデンティティに目が向くものだ。アメリカ史を堂々とそらんじる学生を目にすると,負けていられないとあれだけ暗記が嫌いだった日本史の教科書を開く。

 

 クリフォード・ギアツという人類学者は,学問にとっていったい誰が「当事者」でありうるのか,という問いに特に敏感だったと思われる。彼は『文化の解釈』という著作で,文化というのは公的財産であって,人類学者がある文化探求のための実地調査を行うときに,人類学者(=非当事者)もインタビューをする相手(=当事者)も同様にその文化を「解釈」しているに過ぎないのであり,当事者が文化を私的に保有しているわけではない(Geertz, 1973; 12)と論じている。

 例えば,宗教行事に参加して祭司にインタビューをするときも,祭司が当該行事の解釈の権威となるわけではなくて,そのインタビューの記録も祭司個人の解釈に基づくということだ。またインタビュアーである人類学者も,その儀式に参与しているので,自分なりの解釈が可能である,というのだ。

 ギアツが示唆するのは,一言でいえば,誰でも文化について解釈する権利があるということだ。これはもっともなことであると思う。

 

 一方,当事者以外はわからない,という立場も依然としてある。

 例えば,敬虔なムスリムが「神の思し召し」と言った場合,「神の思し召し」以上でも以下でもない解釈があるのか,という問いである。この批判は人間の経験が単一でかけがえのない絶対的立場からのものだ(Schilbrack, 2005; 443)。

 自分の親一人にしても,他の人間より特別なのは違いない。たとえ,多くの人に「親」なる人物がいるという解釈があっても,自分の親以外にはなかなか「親」としては受け入れがたい。こういった事象の単一性は最後まで拭い去ることはできない。何かに対して,純真で単一であるという命題は客観的説明が難しい。

 

 またこういう問い方も可能かもしれない。当事者にとっての学問とは何か。一見すると,これは神学とはなんだろうか,という私の現時点の問いに最も近いような気もする。というのも,神学はいったん当事者になることを措定する学問のようであるからだ。

 キリストとは何か。ブッダの悟りとはなにか。こういう超常現象への批判をいったん抑え,その概念はいったい何を示しているんだろうか,と「真の当事者」とともに思考を巡らせる必要がある。また,そういった問いが許されるのは神学部ならではなのだろう。

 

 ギアツは前掲書で「分厚い記述 Thick Description」というノートの手法を紹介している。それは,たとえば見知らぬ地域でメモに値する何らかの儀式を目にしたとき,単にノートに年月日と式次第を書いて研究室に持ち帰るのではなく,「酋長がアルコールのような液体を鼻に含んで炎に噴射したが,それは焔をコントロールすることによる魔術の顕示のようである」と主観的分析を含めて書く,というものだった。

 この際,「魔術の顕示」という想像の表現を使った理由も書きしめさなければならない。この描写を思いついた理由というのは何だろう,と自問するのである。すると,魔術という言葉も顕示という言葉も,自分の出自の学問文化に由来するのだということに思い至る。

 そういったリフレクシヴな記述も含めるから「分厚い記述」となり,当事者と同じ土俵で思考を進めることになる。

 ときに意志こそが,自分は何の当事者なのかを決める。自分が何の当事者であって,何の当事者ではないのかの線引きは非常に難しいけれど,当事者になってみるというのは「何かを背負う」ことなのかもしれないと言える。

 

 ギアツがこんな主観的なノートを取るよう主張したのは,私なりに考えると,何かについて学者が代弁することを防ぐといった機能のためにあるように思う。

 たとえば,人類学者が何らかの人間の行為を観察したとして,それをノートに記し,学界に提出してしまったら,被観察者がそのノートを撤回することは難しい。そういう場合,人類学者の記述がある行動についての機制を規定しまいかねない。

 そこでギアツは記述にある程度,あえてゆとりを持たせることによって,「個人的解釈」に止めておいて,ある行動に対して多様な解釈があることを認めてゆくのだ。

「分厚い記述」は人間の行動を,学ばなければならない静的な知識へ転移させることをよしとしない。むしろ動的のまま残し,一般に人間じしんについて考える契機とする。

 

 それに加えて読んでいた,今月まだ初版が出てほやほやの新書がある。上野千鶴子氏の『情報生産者になる』は氏が勤めた社会学のゼミナールの蓄積を一冊の本にまとめたとあって,世間一般にも重宝がられる一冊に違いない。情報学の基礎部分から,問いのたて方,研究計画の策定,目次の配分,執筆要領と他の人文学のゼミナール生が知りたいことが親切に書かれている点が出版社によって広告されている。

 ただ,私がとくに興味深かったのは,当事者研究の手法に紙面を割いていることである。たしかに上野氏は日本の女性学の歴史の証人であるところがあり,女性が女性学をすることにこだわったことは記しておく必要がある(上野,2018; 45)。そのぶん,上野氏が当事者研究という立場に思い入れがあるものとしてわたしは本書を読んだ。当該ページを引いておこう。

 当事者研究とは,わたしの問題をわたしが解決するための,一種のアクション・リサーチ action researchだと考えて構いません。そこには「誰のための,何のための研究か?」という問いが切実に伴っています。ですから「その問いを立てるおまえは何者か?」というポジショナリティを無視することはできません。

 これまで研究とは誰がやっても同じ方法を採用しさえすれば同じ答えに到達する,客観的で中立的なもの,と考えられてきました。しかし,そもそも問いそのものが,現にあるものに対するこだわりやひっかかりから生まれるノイズ。あなたが何者で,どこに立っているかという立場と切り離せません。(上野,2018; 99, 101)

 研究者じしんの主体的立場表明をこそ,情報発信の体裁のほかの,本書のもうひとつの主張なのだと考える。「情報生産」は,上野氏が別の節で論じるように,まさに「問いのオリジナリティ」から発するということになる(同書; 19)。

 しかしひるがえって「学問に自分のポジションを反映して良いのか」という問いは,宗教学と神学を分かつ大きな道標となっているように思われる。なぜなら,神学のみならず,人文学全体として「問いのオリジナリティ」と愉しむことを旨としているわけで,問いを孕む情熱がなければおおよその学問的仕事など成し遂げられないようだからだ。

 

 けれども,若干の懸念があることも認めておきたい。つまり,これほど当事者自身が発信することを是とするのは妙なことかもしれないということだ。多くの科学的立場を顧みれば,真実は真実として正しく記述されているかが問題であって,知識の発信者の信念が重要となることはすくないはずだ。ギアツ,上野の両者の主張はあきらかにこの原則からずれているように思える。

 しかし,原理的に以下の反論が考えられる。自分の立場を正しいと思わないまま,何かを主張することなどできるのか,ということである。ましてや,説得性が求められる学問のことである。自分が正しいと思ってもいないことをどう相手に説得しようというのか。

 実際,人文学的な言説においては,一次文献に何が書いてあったか,そしてそれは何を意味しているのか,という議論に持っていくことが多い。そのような着眼点が「客観的」の理想に最も近いようであって,原著者の主張以上に解釈者が付け加えることは厳に慎むべきことである。

 こういった言説の説得性を高める細かい加工があるにしても,解釈者の主体,すなわち,読み手がどう思っているのかどうかを捨象すべきだといったらウソになる。それどころか,自分が思ってもいないことを,人に説得するというのは,そもそもが嘘の定義に違いないではないか。

 

 この点において,多くの人文学や社会学の言説は「わたしは~と思う」という自己言及の形式をとっていることを認めざるを得ない。

 たとえ社会を論じるにしても,自分が社会の一員であることを前提としている。また,思想家の著作の読解においても,認知における主体というものを認めなければならない。つまり,ヤマという単語を見て,山岳を思い浮かべるか,「今夜がヤマ」というようにクリティカルな場面を思い浮かべるか,は実に恣意的な処理である。この世に自動的な読解など存在しない。わたしがこの社会,あるいは人間について語ることは,自らを語ることと相違ないのだ。

 

 もう一方,かろうじてこれらが「学問的中立」を保つためにどう学問があるべきかを考えることは神学にとっての学問上の生命線になりうる。

 第1点目は科学の作法に現れるように,反証に耐えるという点である。反証というのはその命題を成り立たなくする例が存在するということ。例えば,あしたの天気は雨か晴れのどちらかです,というのは反証できないために,なんの意味もない天気予報と言える。

 逆に,この立場に従えば,言説への貢献している場合とは,何かの言説についてパラドックスを暴露し,そこに建設的批判を据える営みがあるときとなる。

 第2点目として,批判的吟味に対して,統合的作用としての弁証である。神学・人文においては後者を特に考えるべきである。たとえば,筆者が本当に言いたいこととは何か,あるいは書いている以上のことを膨らませて推論することはこれに当たる。批判することは意外に簡単なことだ。人間のアイデアを理解することは,アイデアそのものだけではなく,もとの論脈,クセ,ニュアンスなどの全ての表象が理解の対象となることである。

 最終的な掟として,神学は致命的であってはならない。言論空間ではしばしば勝者と敗者が現れる。しかし,敗者は劣っているわけではなく,勝者がすべての追随を許さないわけではない。特にあるコミュニティを解体しなければならない場合は何としてでも避けなければならない。どんなに現時点で優れているという言説であったとしても,何かが不完全なのである。それが我々がホロコーストや原爆投下から学んだことである。

 

 少々,冗長に考えてきたけれど,今の時点で納得できる結論を出しておきたい。

 それは,神学は総合的視野のための学問であるということだ。いまや哲学にしても「分析哲学」が主流となって,哲学自らにもっとも分析的であることを志向するよう課している。それは形而上学や認識論という部門以上に言葉に現れることに注目する思潮となっている。これらの新しい技法と違い,神学がもっているのは網羅的体系性であり,生きることへの実践的関心である。

 もう一つは,近頃言われなくなった「目的論 teleology」である。アリストテレスの「目的因」から派生したものだが,事物の原因を考えたとき,その原因を過去に探るのではなく,未来に帰する考え方だ。たとえば,架空の太郎くんが勉強して,現在成績が優れている原因を考えるとき,いろいろな要因が考えられるが,「太郎くんは難関の資格試験に合格する目標がある」という未来のことが現在の理由となっている場合を目的因と呼んでいる。これは従来あまり考えられてこなかった視点かもしれない。しかし,信条を分析する際に目的因を省くことはできない。

 ようやく,なぜ無神論者が神学部に入ることを認めることや,この古い学問が現代にも生きている理由がにわかにわかってきたように思える。神学は信仰を守ることや護教のための学問だと従来言われてきた。しかし,思考様式じたいとしてはまさにどの学問からも独立しているように思える。曖昧なものを曖昧にしておくことも神学の重要な知恵の一つである。この神学というフィールドには全世界的,総合的な主題を問う手がかりが,現代では希有にも残っている場所なようなのだ。こういった大言にまた一歩深入りしようとしている。神学はわたし一人の学問ではなく,私たちの学問であると思いたい。

 

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引用文献

Clifford Geertz. 1973. The Interpretation of Cultures. New York, NY: Basic Books.

Kevin Schilbrack. 2005. “Religion, Models of, and Reality: Are We through with Geertz?” Journal of the American Academy of Religion 73 no. 2 (June 2005): 429-452.

上野 千鶴子,2018.『情報生産者になる』,東京:ちくま新書