研究に際する精神的支柱

アメリカの連邦政府自殺防止月間ということで,私も何か啓蒙活動に参加しようと思う。そして,いま大学院生のメンタルは重大な危機に瀕しているという。自分も鬱などの精神疾患を抱えつつ大学を卒業したので,疾患がどれだけ研究者にとって負担になるのかは理解できる部分がある。一般的にアカデミックな世界は,非常に自由なイメージがある。それが所以で,大学教員は精神も安定して悠々自適な職業のイメージもあるが,それが唯一当てはまるのは,テニュア・トラック(終身在職,つまり「一生安泰」)の教授職だけであろう。そのテニュアを目指している若手というのは,それはもう熾烈な競争社会であり,テニュアがどの大学で取れるのかというのも運次第というから,なかなか大変である。それも研究一本で大業績をあげて教授職になれるというわけでもなく,教育力・学部内政治力,全ての点において秀でていることが重要なものだから,大学の先生というのはかなり不安定じゃないだろうか。なおかつ,研究というのは孤独なもので,とくにオリジナルな研究であればあるほど,その価値をわかってくれる人は少ない。数少ないチャンスの波に乗る,それでいて周りから信頼されるリーダーシップを取れる能力は,とても精神的に強靭でなければ務まらないような気もしてくる。本稿では大学・大学院で具体的に何がプレッシャーなのかを明らかにするとともに,ちょっとした考え方の転換など,今すぐできる方策みたいなものを考えてみたい。

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私は人文学系統なのでその周辺の話をすると,アメリカの大学院には修士課程プログラム(2年)と博士課程プログラム(最短5年)があって,さらに修士・博士一貫コース(5~7年)がある。後者の一貫コースはいわゆるエリート大学に多く,そのコースは修士号のみを目的とした入学を認めていない。すなわち,研究者志望のみをとるということになる。ただ,アメリカの学部トップ校を出たような人たちは,やはり学習進度が速いので,そのような場合は難なく一貫コースに入学する。一方,修士号を単独で出している学校にも利点がある。平均的な大学を卒業した場合,途端に始まる大学院の超絶的なスピードや過大な期待にのれないようで,そういう場合でも比較的少人数でみっちり学問のトレーニングをつめるというのが特徴のようだ。その修士単独コースを出た場合,博士・一貫コースいずれにも入学ができるので,この場合は堅実なキャリア・アップができる。そしてこの進路じたいに優劣はない。いわゆるトップ大学院の一貫コースは外部での修士号持ちしか入学を許されないほどレベルが高騰しているとも聞く。もしも超有名大学の学部で主席を取るような実績がないならば,着実な道を選ぶことになるだろう。

そして,比較的大学院入学の早い段階で経験しやすい精神的状態が「インポスター現象 impostor syndrome」といって,たとえ正式な入学許可が降りた後でさえも,自分がこの大学院で学ぶには周りと比べ学力不足なのではないか,と悩んでしまうケースである。とくにアメリカの大学院の場合,入学試験などの学力のみで入学許可が降りるわけではなく,先述した通り,キャリア,バッググラウンドの多様性,意欲の評価も入っている。そのような特殊な選抜方法が逆になぜ自分が選ばれたのかわからない,といった,皮肉にもジレンマのようになってしまうことがある。自分の頑張って書いた論文にしても,他人と比較してしまって,安易に自分を褒めることができない,といった場合がそれである。

これはなかなか複雑で,実際いま自分も悩んでいるが,一層のこと,みんなくじ引きで選ばれた,と割り切ることが必要ではないだろうか。そもそも大学院を卒業することに,周りを圧倒する学力が必要なわけではなく,ただ卒業要件を満足すれば卒業ができるのである。そして,やはり自分の一番得意なことに絞って熱を入れるのが良いように思う。そして,いろいろな才能をクラスメイトの中から発見して,認め合い,学び合う,というふうに,偶然つなぎ合わされた家族の協力のように捉えると良いような気がする。自分は精神科医ではないから,医学的見地に基づいたことは言えないが,ここは新しい環境を楽しむというのが,面白いのではないか。その場合でも「気楽に,気長に」が基本ペースとして最も適当だ。

無論,インポスター現象がちょうどいいエンジンになっている人もいる。もっとも,そういうピア・プレッシャーはいわゆる「学生たるもの,~をすべし」という一種の形(かた)というか,流儀のようなものを生み出す。そういうことが負担になることもあれば,極上の栄養になることもある。そういうことは各々が身の丈を考えて取捨選択すれば良い。ただ,プレッシャーや規範を他者に与える行為については,私個人としては慎みたいと思っている(そもそもそんな実力があるわけれではないが)。そういうのは傲慢だし,一緒にいると疲れるではないか。自由な研究の視野と堅実なディシプリンを保つということが各個人に求められているのであって,他者をコントロールすると窮屈のように感じる。セミナーのような狭い研究空間で,リーダーシップなどいらない。リードするのではなく,サジェスト(提案)することを心がけたい。

次に取り上げたいのは「試験恐怖」である。試験といっても様々にあるが,大学院でも悪名高いのが博士論文提出資格試験,英語ではThe Qualifying Examinationである。通常博士課程3年目に4人の教授によってなされる問答試験で,1科目4時間を4科目という大きな試験である。これに合格すると伝統的には「ドクトランドゥム(dr.)」つまり「博士候補 PhD Candidate」を名乗ることになる。1科目について60冊くらいの書誌目録を渡されて,それについて試問がある,ということだけれど,これに一生かけても足りないと思えば足りないような気もする。しかし,結局,時間制約がなければ勉強もうまくいかないと思う。実際,この試験に失敗して大学院を退学になる場合がある。合格ラインは85%で,かなり高い。泣きそうになりながらやるしか方法はないように思われる。

もっとマイナーな試験,ドイツ語・フランス語・イタリア語・ヘブライ語ギリシア語などのリーディング試験でも,どの程度できれば良いのかということが分からなければ不安に駆られることもあろう。普段の授業で課される期末試験は常に100%が求められるけれど,対策がしづらい試験もある。ただ,こういう語学の試験というのは実力試験として捉えるのが,かえって精神的なストレスを低減させる方法なのではないか。つまりこうである。試験以上の実力をつける,すなわちドイツ語で論文書くぞ,というような高めの目標設定を最初からしておけば,語学試験も通過点になるということだ。すると,毎日語学の時間を作ることになるけれど,やはりそういう毎日コツコツするのが大事ではなかろうか。「語学は語彙に始まり語彙に終わる」ということで,僕は毎日,学習辞書の語誌の書写・暗記をしているけれど,これが結構安定感がある。大学ノートに毎日するツイッターくらいのサイズで各単語の覚えておくべきことを略述していくだけ。ノートが溜まっていくと,やはりそれだけ自信になる。日本の場合は語学検定の試験が十分発展しているから,そういうのも,とても良い学習の目安になる。古典語の場合は「同じものを繰り返し,スラスラ訳読できるようになるまで読む」という方法を今夏習った。毎日朝昼晩のむ薬のように,一定の時間を取るしかない。

もうひとつは読書記録をどこまで付けていくのか,という課題も考えられる。これも少しずつするしかしょうがない。自分を律して,自分のために試験するのである。僕が今考えているのは,ブックレビューでもなんでもいいが,第三者に紹介するために本を読むという方法である。結局何が問題かって,古典的大著を240冊も読んでいれば,「今いったい何のためにこの本を読んでいるのだっけ」という彷徨感に必ず陥るということである。書誌目録が体系だっているのであれば問題ないが,そうでないのであればとても一気に読める量とは言えない。やはり一番必要なのは「体系」あるいは「構造」であるというふうに思う。いかにその240冊を自分の中で体系的に編集していくのか。その目的は,学説史・学問史の解釈である。優れた学者は一般的に「何がわかっていて何がわかっていないのか」を皮膚感覚で知っている。学問をさらには領域的に捉えられ,ある情報を手に入れるのに専門家とチームワークを組めば良いのかを肌感覚でわかっている。そういう情報の海の海図を書くのが博士論文提出資格試験であって,そう言われてみれば合理的である。よって,読書以前の本選びがとても重要になることに間違いない。読み進めつつ考えなければいけないのが実際だろうが,探すものは第一に体系,最終点で得るべきものも体系である。幹を忘れずに枝葉をつけることこそ肝要であるようだ。

さらにもうひとつ,大学院で精神を参らせるのは「生産性」という強迫観念であるように思う。いま一国の国会議員が同性愛者は社会にとって非生産的だという,開いた口が塞がらないような発言がなされたを機に,この「生産性」ということを日本社会がより深く考えつつあるように思う。転じて,人文学系の大学院生が自分のことを社会から不適合と感じたり,非生産的であるように悩むこともあると思う。私はそうやって言ってくる輩に「決してそういうことはない」と申し上げたい。

そもそも「生産性」とは何だろうかをちょっと考えてみよう。英語のproductivityを考えると,時間を定数として,対価を変数とする考え方だけれど,そういうことを自身に課すことで得られることなんてほとんどないのではないか,と思う。同じ語幹のproductionも肉体から創造力を搾り取るという近代の管理社会の用語として捉えられる。むしろ僕はこういう用語は消費者のための用語であって,生産者が自分に対して使う言葉ではないように感じる。だって,「生産性」を掻い摘んでいうと,「自分が自分の肉体を労働させる時間の対価」ということであって,ちょっと息苦しくないか。僕がもっと適当な言葉としてここに挙げたいのは農耕作業を意味するcultivationである。農業というのは,一日でどれだけ頑張っても収穫するのは一年後みたいなことがある。そして生産者がどれだけ頑張っても,育つのは植物で,育てるのは太陽の役割が大きいということ,つまりそこに不可抗力がある状態である。つまり,生産者じしんがもっと気にするべきことは「その植物が美味しい実を育てる環境にあること」であって,「自分がどれだけ頑張って畑を耕すかではない」という話である。

僕は大学院生にとって(そして多くの職種にとって)の「生産性」というのは,農作業のようなところがあると思っている。農作業では畑を1日にどれだけ耕せるかということが,そこまで重要とは思えない。もちろん軍事的な開墾作業ではそれが重要になるのだろうが,収穫を目的とするならば,どれだけ速く農作業をできるかということはそんな問題にならないはずだ。ただ,扱うのは生き物(自分の頭脳)であって,「畑に赴く頻度」と「世話をする質」がことに重要であるように思う。そのために畑の土を柔らかくするのであって,適度な肥料や水をやりにいくわけだ。英語で文化や教養を意味するのが「カルチャー culture」で,本来の意味は「耕作・養殖」である。(ちなみに「the culture of oysters」を牡蠣文化とは訳さない。)私が理想とするのは,自分の頭脳を養育する質であって,一定時間に産出するペーパーの量では決してないのだ。良い仕事ができるように心と体を整えることが結局,このわけのわからない「生産性観念」に抗する唯一の手立てのようである。

では実際何が自分の頭脳の栄養になるのか。考えてみると,今こうやって机に向かって勉強している事実の裏にどれだけいろいろな人々が関わっているのかに驚きを隠せないことがある。まずは基本的な人間生活である,運動と食事にしても,やはり「他人(自分の身体)をいたわる心」と関係しているし,友だちとのちょっとした会話にしても,他人がいろいろ慮ってくれていることは多い。ついぞ勉強にしても,自分と社会のことに思いをいたし,それを愛さなければことは続かないのである。ちょっと精神論にはなるけれど,自分の精神や体躯のことをきちんと愛することに何か基本があるのだろうと考えている。それは甘やかすことでも,贅沢な暮らしをいとなむことでもない。他人のみならず,自分に対して正直であるか,という類の問いである。

私は毎日2回はご飯を炊いて,おみそ汁を作る。いろいろ試したが,このコンビが自分に一番合っている。お味噌汁の何がいいかというと,野菜が美味しく食べられる方法ということだろう。野菜を摂るのは現代人にとっては大変だ。そもそもカロリーがないし,お腹も膨れない。ふと玉ねぎとキノコを切っていて思った。なんでこんな栄養のなさそうな食べ物をみそ汁という特等席に居座らせているのか。理由は簡単で,安いからなのだが,栄養をとる効率はファスト・フードに比べて,超スロウである。ある日はパプリカを入れたり,いろいろやっているが,年がら年中の旬の野菜(つまり安い野菜)を一番美味しく食べる方法がお味噌汁ということである。当然,ベーコンなど入れると旨味が引き出されて,嫌いな野菜も割と食べられる。一汁一菜の基本ができていると,やはり精神的に落ち着く。みそ汁が美味しい日は調子がいい。

さらに,公園というところが居心地のいい場所になったのもここ数ヶ月の話である。まあ季節柄ということでもあろうが,暑い寒い関係なく,公園の緑や,ここシカゴでは湖水の翠がとても美しい。それを毎日見に,あるいは音響を感じに行くのがとても楽しい。このことを発見するのが自分はとても遅かった。自分も長年ジムには行っていたけれど,今は筋力体操も全て自重にしている。プロテインは高いし,なんだか不自然な栄養バランスだし,落ち着かない。自分をいじめ抜くのは結構なことで感心するが,最近ようやく自然派な暮らしに目覚めた。毎日3マイル(5キロ弱)走ると決めて入るけれど,気分が乗らなくて終始歩いて帰ることもある。毎日そういう時間が持てているうちは人生間違えないと思う。これから来る寒さをどう乗り越えようか,思案している最中ではあるが。

最後に,いかに競争社会を生き延びるかについてまとめておきたい。私はいまでも競争社会は悪弊であるどころか,管理社会の怠慢に過ぎないと思っている。競争社会は嫉妬する社会である。ゆえに見苦しい。私が思っていることは,横(周囲の人々)ではなく,前(自分の夢や意志)を向いてどこまで生きることができるか,ということである。あるいは実際に中間管理職にいるならば,どうやったら後進の人が働きやすくなるか,という問いに忠実になることである。それを見失って,他人を気にして,ないものねだりに陥ることの多さと言ったら。人間,自分一人しかやっていないことを突き詰めるということは孤独であり,不安である。しかし一方,自分と他の人たちが同じことをやっていることに安心し,慢心さえするようなことさえある。競争社会に抗するということは,孤独に向き合うことに同義である。そして繰り返しになるようだが,自分を労ることを忘れないことである。

正攻法は常に良い。自分の持っている問いの大きさを細分化し,自分の日課に落とし込む。競争社会に陥ると,つい他人との差分で勝ちたくなるものだが,それは危うい。日課こそ,一人一人の人格を作っている。そういう意味で,よっぽどの才能がない限り,毎日を丁寧に生きるべきなのだと思う。毎日,早起きし,三食食べ,本を読み,歩き回り,早く寝る。語学についてはコツコツ単語を調べ,文章をより多く読む。歴史については,文章を重要度に基づいて仕分けし,読書ノートを作っていく。部屋は常に掃除しキレイに保つ。私はそれができれば,何の心配もいらないと思うし,実際,それが出来ていればなんの心配もしていないように思う。それ以上のことは身の丈以上の嫉妬と捉え,断ち切るまでだ。一念発起して,夢に向かう努力に勤しもう。

まとめよう。ここまで医学の見地とはおおよそかけ離れた,解釈の転換を試みてきた。そもそも認知の歪みを是正するという意味でである。もちろん,精神病は精神論ではない。深刻な向きはきちんと医療機関にかかることを本当に勧めたい。しかし,一体,人間生活にとって何が必要なのかは今確実に必要な問いであるように思う。あまりにも多くの人が厳しい社会生活に疲れ切っている。自分に対しても,他人に対しても厳しくなっている。まずは,自分と他人,どちらも労らなくてはならない掛け替えのない存在であるということ。そして,簡単なルーティーンを作って,出来たら自分を愛してあげるということ。他人を慕うということ。そういうことが,結局は病を癒し,社会を癒すことに繋がるのだと信じている。大丈夫。ゆっくり,遠くを目指そう。