再出発と展望

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シカゴ美術館のステンドグラス

しばらくブログがアップデートされなかったことをお許し願いたい。わたしは鬱を患っていたばかりではなく,教育業についたこともあって,私事での発言を控えてきたということもあった。思えば,しかしながら,何も思索に身を投じなかったわけでもなく,この実利重視の社会にどう身を呈せば良いのか,わたしながらにしどろもどろになりつつ,考えあぐねていたのである。

ここ5年と言ったら良いのか,情報発信の手段が様変わりし,世には動画投稿で生計を立てる人もあり,なかにはとてもおもしろい内容を配信している方々もいる。わたしの周囲は完全な学者タイプでインターネットを忌避していて,私にも時間の無駄であるからおやめなさいと諌めてくださる方もあるが,私のようなミレニアル世代は生まれた時からそういうものに取り囲まれて育ったわけで,インターネットのような手段は確実にもはや身体性を帯びている。紙に鉛筆という時代を問わない手段もときどき使うけれど,電子化という流れに抗するだけの説得力のある理由がない。

ブログを再開したのは,学界に戻ろうと決断したからにほかならない。シカゴ大学を休学して職には就いたのだが,私の精神科医の先生は「身を立てる手段は幅広くもつように」と仰っていたこともあって,籍を抜くことまでに至らなかったことが幸いした。誠に勝手ながら,私はこの精神科の先生なしではやっていけない。もう7年目の付き合いである。

ハイド・パークシカゴ大学の幅広く受け入られている愛称)は,何を隠そう,恋しかった。私のような庶民には少々お高くとまった印象がなかったわけではないけれど,シカゴの劣悪な治安のなかでは,まさに桃源郷のように隔絶されている。ミシガン湖畔には散策道や美術館・博物館が整備され,区画のいたるところに緑があふれている。バスに10分も乗ればシカゴ市街につき,そこはもう世界的ギガポリスである。

ただ,この少々世離れした大学は,確かに,地域住民からは蛇の如く嫌われており,言ってみれば,新自由主義経済の権現にふさわしい(ミルトン・フリードマン率いるシカゴ経済学派はこの場所で生まれた)。このような場所で宗教史のような学問を修めることに矛盾を感じているのはほんとうのことだ。とくにこの「有名校」のような雰囲気は少しも好きになれない。

もとはと言えば,わたしが鬱を患ったのも,この学校がわたしの学校であるということが頭で理解できなかったことが要因の一つだった。入学が許された暁には,ほぼ一人前と見做され,学内に住む場所も与えられず,放任される。そして毎学期,各授業に1520枚のエッセイを出したら,単位が取得できる。ただし,各授業は毎回700ページほどの読書を要求される。放任主義に徹してはいるようだが,その裏返しで,ついていけなくなったときのサポートが手薄であるばかりでなく,教師も学生の競争主義を信頼しているところがある。一方,教師はカリキュラムにとらわれない自由な授業を展開している。

前にブログで触れたこともあったか忘れたのだが,アメリカの成績評価は非常にシビアである。大学生でC評価(70点ライン)をとっていたら,学部長と懇談しなければならず,成績が改善しないようならば,退学を勧告される。大学院レベルではその基準がBマイナスになる。アメリカでは入学が容易く,卒業が大変であると言われるのはそれが要因である。

こういう環境にあって,わたしは競争社会に来てしまったと思い,わたしの学部の母校に抱いているような母校愛を育むことはできなかったばかりか,あまりにも馴染めないので苦しい経験をした。世間的に言えば,大学就学年次にもなって,手厚い学習支援がある方が珍しいのだろうか。そういう意味では,やっと大学生になれたのかもしれない。

いまだに英語で苦しまない日はない。学者が使う独特な用語は一種の暗号である。入学時に課されたGREの勉強は,確かに入学者の前提条件となっているようである。いうのも恥ずかしいが,大学生のときに書いていた英語は,主旨が明瞭であって説得性があるならば,論の少々の乱雑さは見逃してもらえていたように思う。一言で言えば,「通じれば良い」ということだ。

ただ大学院に入ると,学術語彙と言って,一般的な表現を控えなければならないことなど,たくさんの制約がある。Excoriate, mitigate, anomaly, aggregate…など,通常の会話表現ではおおよそ使わないような語彙を使うことを要求される。ただこれは衒学的語彙(jargon)とは区別される。学術語彙について,少し例を挙げると,「このグラフが言っているのは」という代わりに「このグラフ中の数値が示すのは」という丁寧な語彙を使うことと似ている。これに対して,衒学的語彙は「これは筆者にとっての現存在(ダーザイン)にほかならない」というように,使う必要のない難のある晦渋表現をいう。この語彙が適切であるかどうかの線引きが外国語話者にはひどく理解しづらい。

なお,わたしはこの反省から,しばらく大学院のためのスタディ・スキルについて,自分の言葉で論述していきたいと思っている。たとえ年長者になっても,「こんなこともできないのか」というのはあまりにも簡単だ。それを説明しないまま,学問という牙城をつくってしまうと,結局誰からも相手にされなくなる。これが現在,日本社会で人文学・社会科学に携わる人への評価・待遇につながっていることは言うまでもない。学問に一定のディシプリンがあることは確かであるが,これは第一に誰でも身に付けることができ,第二に,身につければ実社会(民主社会)において高次のコミュニケーションを取る際に役立つという点で,開示する価値があるとわたしは強く信じている。

このスタディ・スキルは理想を言うならば,大学院の最初の学期にわたしが知っておきたかったことである。しかし,この大学では周知の事実であったようなのだ。わたしの周りには,いくつも修士号を持っているような人がたくさんいる。ただ,この情報格差のせいでわたしはかなり損をしてきた。人文学に取り組む端くれとして,わたしは専門分野の他にこれに取り組んでいきたいと思っている。これは私なりの社会貢献のテーマにほかならない。

今,考えているラインアップは次の通りである。

  1. 批判(クリティーク)の手続き
  2. 建設的議論の参加方法・輪読の準備
  3. 剽窃を回避するジャーナル法
  4. 建設的議論のファシリテーション
  5. 論文執筆のストラテジー

これらは言い換えてみれば,政治参加の民主主義的手続きである。たとえば他のSNSで発言をするときも,何かの新聞記事・書籍を「批判的」に読み,議論を打ち立て,自分の真意を炙り出して,一つの言説として世に打ち立てることになる。ただ,私も修行中の身であることからして,ヒューリスティックなものの考えであることは論を俟たない。それ自体も一つの目的である。

最後に私の愛する聖アントニオスの言葉を引いておきたい。4世紀にエジプトの修道長となった人物で,のちにキリスト教徒の諸制度を構築したと言われるアタナシオス・アレクサンドリア大司教にも注目される。キリスト教徒になるために修行法(アスケーシス)を精緻化した人でもある。もしかしたらキリスト教会を作ったシモン・パウロの次に,キリスト教徒とは何かを追求した人かもしれない。

「世には誤って賢き人と呼ばれている者もいる。賢き人とは古諺や老練な学者の論に通じている人を意味しない。知性ある者とは知性を備えた魂をもって善悪を正しく極める者である。彼らは罪深いことや魂を傷つけることを避け,神への感謝を忘れず,行いによって善事と魂に益することを諦めない。本来,これらのことを行う者だけが知性ある者と呼ばれるべきである。」