歴史を書くときの基本形

おそらく日本で中等教育を受けてアメリカなど英語圏に留学する場合,ディスカッションなどの討論よりも,エッセーを書く方が得意だ,という人が多いと思います。エッセーはどれだけ時間をかけて書いても相手に辛抱強く読んでもらえますから,実際の口頭でのコミュニケーションとは大きく違っています。特に日本の中等教育までの英語の授業でも英文解釈と英作文は長いこと鍛えられているという自負もあるはずです。ただ同時に,日本の現代文のような評論を読んできた方は,非常に文章が込み入ってしまい,日本語の論理で英語のまとまった文章を書くととんでもない評価を下されることがあります。思考が複雑なことはとても良いことですが,より柔軟に読者である英語話者の理解の筋道を把握することも同時に求められています。本稿では実際に一行おきで5~7ページほどの文章を書くことを想定して,私が現時点で行なっているライティングの手順を紹介したいと思います。

 今日は歴史家(そして多くの人文学者)の基礎訓練である「一次史料分析」というのを紹介します。私は大学一年生から,この分析的なエッセイを30回以上書いています。一次史料というのは研究対象となる時代に遺されたテクスト,芸術作品,建築物などです。それをもとに歴史として構成したものを二次史料(文学)と言います。したがって,よくある歴史の教科書は全て二次史料です。歴史家にとっては二次史料は知識を備えるための道具であり,メインの仕事はその知識を使って一次史料を読み解くことなのです。

 実は歴史の根幹はこの作業を繰り返すことで,練習すれば誰でもできるようになる一方,日本の教育は読解ばかりが強調されて,この練習が不足している場合があると思います。高校の中には小論文の受験対策をするところもあるでしょうが,私の高校時代では少なくとも,とりあえず書いてみて,添削を受けて評点をつけられて終わりというのがオチでした。多くの方は文章の巧みさに注目されるかもしれませんが,作文で伸ばすべき能力とは分析の深さと理路整然とした思考の表現の方ではないでしょうか。

 まずはよくあるテーマを形式化してみましょう。実際の大学入試で小論文を課すところでは80分で1,000字というところが相場でしょうが,この想定では1週間かけて5~7ページの分析的な文章を書くことを考えます。アメリカの大学の課題も,時間が理想通りにあるときで,これくらいが相場だと思います。そしてもうひとつ指摘しておくべきことは,テーマがわかりにくい課題が多いことでしょう。「課題:アウグスティヌス『告白録』を論じなさい」と言われても何を書けば良いのか分からない,という場合が。あるいは比較分析の場合で「アウグスティヌスの『告白録』のなかの宗教観とオウィディウスの『メタモルフォシス』の宗教観」を比較しなさい,という場合に「違いがありすぎて比べようがない」と行き詰まることがあります。今のところ,私たちが直面している問題とは,この「何を書くのか」という問題でしょう。

 少し時間を遡ることが必要なようです。すなわち,その分析対象となる史料を読む際に「何を書くべきか」という視点で読まなければならない。あるいは面白そうな話題が頭に出てきた際にすぐに走り書きを本の余白に書き込むか,付箋に書いて貼っておくことが必要です。また,こういうふうに「何について論じるか」と考えながら読むと,頭が構築的になって,読むことを補助することもあります。そして著者の書き方というのも客観的に見えてくるものです。そして,歴史的分析を下す場合,次の諸点について考えて見ることをおすすめします。

 (1)テクストに現れうるレベル:どのような人物(組織)がどのような読者を想定して書いた文章か。実際にその想定された読者はその文書をどう読んだだろうか。その文書はどのような性質の文書(法律文・書簡・日記など)か。どうしてその著者はその文書を書いたのだろうか。著者が想定していた読者の他に,その文書を必要としていた人はいただろうか。周りの人は著者本人のことをどういう人物と思っているのか。その時代の人が読む方法と現代人がその文書を読んだ際の受け取り方は違っているだろうか。その文書は編集が施されていないか,そしてそうである場合,どのような性質・目的の編集か。そのテクストじたいは信頼にたるものか。批判的論調か肯定的論調か。テクストに矛盾は無いか。

 (2)テクストに現れないレベル:その文書が書かれたときの著者の周りの政治権力の状態はどうだったか。他のテクストから影響を受けている書き方・レトリックを使っていないか。そのテクストが書かれたメディアは何か(羊皮紙・書籍・パンフレット)。どんな情報が(あえて/無意識に)書かれていないでいるか。

 (3)テクストの受容者に関わる問い:なぜその文書がみんなが持っている歴史像にとって重要なのか。

 特にみんなが持っている歴史像を変える重要性がある場合,その資料は重要史料になると言えるわけです。分析文はそれが重要となる所以を解説するべきです。多くの方は歴史を論じる際,事象に関して血を上らせて捲したてる傾向があります。例えば「原爆投下の功罪」「奴隷制度の是非」などは,アメリカでも自分の親族が関わっていることが多いので,いろいろ歴史の教室で私も諍いを目にしてきました。しかし,歴史学としてもっと問うべきは,例えばトルーマンが原爆投下の時に書いた命令書を真摯に読み,その時のトルーマンを囲む人間関係,あるいは自分がリンカーンだったなら,奴隷制度に対してどういう判断を下すだろうか,と想像し,リンカーンの判断の妥当性を検討することではないでしょうか。もしも,それについて議論する機会があるならば,その文書の様々な読み取り方の可能性を探る良い機会となるでしょう。議論できない場合はそれをリサーチするべきです。逆にいえば,その文書の読み解き方がそのまま歴史像になるのです。 

 さて,分析文を書くには前段階でここまでの準備する必要があります。歴史は予習も大事だということもお伝えできたかと思います。私はこの分析作業をワープロで行っています。この作業を「ジャーナル書き」とでも読んでおきましょう。だいたい,私個人の目安ですが,実際のエッセイに書く分量の4~5倍(シングルスペースで12~15ページほど)の情報を書き下しておくと,だいたい安心できます。このジャーナル書きのときに,必ず資料の出所をページ数まで記録しておかないといけません。自分は,出所のフルサイテーションを記録した後,その後から箇条書きにして各行末に括弧でページ数を付しています。この作業も文献に書き込んであったり,付箋が貼ってあれば案外楽に行くと思います。書籍の場合は完全に読み終わった後の方がジャーナル書きが捗りますが,電子ジャーナルの場合は印刷やファイルを保存することは少ないです。自分は印刷しっぱなしを防ぐためにジャーナル(ワープロ画面)と資料内容のウィンドウをスクリーン上で並列させてその場で書くことの方が多いです。きちんとフルサイテーションをしておけば,後から印刷することは可能です。

 ジャーナルがまとまってきたら,次に文章の流れをアウトラインで詰めます。私はエッセイを書くという場合にはこれが一番重要な作業だと思います。特に英語で書く場合は必須です。このアウトラインもワープロでしてしまった方が,並び替えが後にしやすいので気に入っています。そしてハーヴァード式アウトラインはおそらくどのワープロの箇条書きのプログラムにも入っていることだと思います。「ローマ数字の大文字,英大文字,英小文字,アラビア数字…」と抽象的(大づかみ)な内容から具体的(個別的)な内容への順のまとまりを作っていきます。これはのちにパラグラフの単位になります。この全体の文章の流れを構成するとき,重要なのは主文を考えることと,パラグラフ同士のパラレリズム(平衡感覚),そして述べる順番の3点です。

 まずは主文を考えなければなりません。英語では第1段落の最後の文をThesis Statementと呼びますが,日本語では「イイタイコト」とカタカナで訳されることがあります。主文ですから「被告人に罰金3万円を命ずる」といった日本語で言う結論が先にきます。でも私は「言いたいこと」や「結論」という訳はあまり適していないと思っています。言いたいことは,書き手の認識レベルでは,全て書いているわけですからね。私はたまたまこのThesisに対する訳を本から見つけました。とても多作で自分も尊敬申し上げている社会学者の大澤真幸さんが2013年の著作で,大変興味深いことをおっしゃっています。「…私は思考の過程で,補助線を入れてみる,ということをよくやる。補助線というものは,事前には,どこに入れるべきなのか,いかなる指示もない。幾何図形をいくら眺めても,補助線をここに入れましょうと書いてあるわけではない。にもかかわらず,巧みに補助線を入れると,今まで見えていなかったことが,突然に見えてくる」(大澤,2013; 34-35)。英米人の言うThesisというのは日本語の論理ではこの(思考の)「補助線」のことではないかと思います。実際,一次史料にこう読み解いてくださいと書いてあるわけではなく,手を動かして考えてみる段階が要ります。歴史的文章の読解を形態論の延長と捉えていることが非常に納得がいきました。また,この補助線は思考のどの段階で生まれるか分からないのです。 

 たほう,パラレリズムという言葉はあまり聞きなれない言葉かもしれません。日本語が語順の比較的自由な膠着語であるのに対し,英語というのは語順でシンタクスが決まってしまいます。したがって,説得的な文章ではシンプルな構文に揃えた方が効果的に聞こえます。日本語は例えば「太郎が家を早く出たのは,結核で病院にいる花子に会うためだった。」という風に太郎と花子という要素をわざと離して意味上のまとまりを示す転置をよくやりますが,英語表現でそれをやると良くないと言われます。「私が好むのは,イチゴが載ったショートケーキ,キャラメルが入ったチョコレート,そして,祖母が焼いたアップルパイだ。」と並列した方が英語にはいい表現だそうです。これと同じ発想がパラグラフ構成に必要になります。パラグラフは主文に対する関係の他に,パラグラフ同士が整然としていることが求められるのです。

 例えば,私が好きなものは「ショートケーキ,チョコレート,銀座に行くこと」です,というと,銀座に行くことは他の二つに比べて,食べ物ではないという点で浮いていますね。こういうことをパラグラフではやってはいけないのです。「私が好きなのは銀座に行くことです」というと十分意味は通りますが,ショートケーキとチョコレートに似合わないということです。このように例えば,主文で「アウグスティヌスが著書『告白録』で自分が他宗教からキリスト教に改宗した足跡を残したことは,キリスト教徒のみならず,他宗教の関係者がキリスト教に触れる機会を直接与えた。」と論じたとしましょう。それならば後続パラグラフの第1文には必ずこの主文の根拠に触れていなければなりません。最初に荒削りをします。(Ⅰ)アウグスティヌスは自分の改宗を語ると同時に,他宗教,ギリシア・ローマの市民宗教やマニ教との比較分析を行った。(Ⅱ)アウグスティヌスは理性を重視する当時の他宗教に比べてストア主義が関与した禁欲的な実践があるキリスト教に感銘を受けた。(Ⅲ)アウグスティヌスの個人的な記憶(以前キリスト教徒をからかったこと苦い記憶など)が,一層他宗教の人々にとっても親しみを得やすいものになった可能性がある。まあこんなものでしょう。

 するとこのとき(Ⅰ)~(Ⅲ)の関係性を比べてみます。各論点を短く言えば,(Ⅰ)他宗教との比較分析視点を提供した,(Ⅱ)他宗教との宗教実践の違いを提供した,(Ⅲ)他宗教からみたキリスト教への視点を提供した,という風になります。すると少し(Ⅱ)が浮いていますね。(Ⅰ)と被っている感じがする。ここで主文をもう一度考えると,他宗教がキリスト教を省みるきっかけを作ったというのが主旨でしたから,(Ⅱ)は明らかに論点からずれています。ここで(Ⅱ)を「アウグスティヌスは他宗教について知識をあまりに重視しすぎることを批判することで他宗教とキリスト教との位置関係を明らかにした。」と言ってみると,まずまずですが,「他宗教者がキリスト教を参照する機会」になった理由にはなっています。こういう風に少しずつ微調整を加えていきます。こうして(Ⅰ)~(Ⅲ)が出揃ったところで主文をもっとクリアに書き換えます。「アウグスティヌスが著書『告白録』で自分が他宗教からキリスト教に改宗した足跡を残したことは,キリスト教徒のみならず他宗教の関係者が,キリスト教比較的,知的,あるいは外部的視点で把握する機会を直接作った。」と,主文が軽く各論点に触れておくとエレガントと言えます。

 最後に順序を調整します。ここでもう一度,前出した社会学者の大澤さんの言葉を引いてみようと思います。「自分の思考が実際にたどった順序と,他者に対して説得力のある順序は違う」(大澤 2013; 28)。これは結構難しいのです。他人に聞いて見ないと分からないところがあります。大澤さんも言っていること(同書,29)ですが,自分のジャーナルとアウトラインを見比べて親しい人に話してみるとわかってくることが多いです。そのとき「あのさぁ,アウグスティヌスがさぁ,」と話していてもさっぱり分からない。相手にとって必要な情報を補う必要があります。「あのね,いまローマ帝国が滅びそうな頃に現れたキリスト教最大の哲学者と言われている人について勉強して,彼の著作を分析している最中なのだけれど,その人もともとはキリスト教徒ではなかったらしいんだ」と一般的な百科事典にある程度の内容を付け加えるとすんなり話に入っていけます。アウグスティヌスに無知な他人に話すことは,アウグスティヌスについて実際書く前に内容に自覚的になります。 

 ここまでジャーナル書きとアウトラインの方法を紹介してきました。実際に本文を執筆するよりも,アウトラインまでの方が時間がかかります。最初の想定のように1週間エッセーを書く時間があったならば,6割はジャーナル書きとアウトラインで消費してしまうものです。後の4割はさらに2分割して,2割を執筆作業,2割を校正作業に充てます。 

 執筆作業は「とりあえず最後まで素早く書き切ること」です。例えば金曜日の朝提出することが決まっていれば,火曜日まではアウトラインを練った後,水曜日の朝8時からコーヒー片手に図書館の個別ブースで書き切ります。このとき意識すべきなのは論脈のリズムです。だいたい5つの要素でパラグラフを切りたいところです。(1)トピックを決める文章(先ほど練ったⅠ~Ⅲの文章),(2)トピックを平たく言い換える,(3)例示する(多くの場合,引用する),(4)例がそのトピックの例であることを論証する,そして(5)今までの議論を振り返り,次の論点へ移行する。この流れをバラグラフがある分繰り返せば良いことになります。日本の作文は漢詩の絶句に影響されて「起承転結」を模範としますが,「起承承承結」のようなイメージを持って,論争相手を畳み掛ける感じが英語の論文です。引用を行う際はきちんとマニュアルに従ってください。歴史学シカゴ大学出版会発行のシカゴ・マニュアルに従います。出来上がりは中世の注釈書のようにエレガントです。

 みなさん,ここで提出してはいけません。ここからの校正作業が一番人間として成長します。校正作業には1日以上使わなければなりません。なぜなら,執筆作業中の自分を省みるために,少し時間を置く必要があるからです。まあ現実的にはきちんと8時間くらい寝て醒めてから読み直します。ここからは50%を書き換えるくらいの気持ちで文章を研ぎ澄ませます。多くのプロの校正者は文章を最後のパラグラフから読み直すそうです。それは日本地図を逆さまにしたとき,いつもよりも本州の形が違った印象になるのと同じ原理です。文法やスペルミスは外国人だからといっても極限まで減らしましょう。何度も自問するのです。和英辞書などで知らない単語を始めて使う場合は,自分がすでに知っている単語に置き換えられないか,探ります。場合によっては辞書で用例やシソーラスを確認します。

 最後に余裕がある場合にはライティング指導の専門家に最終確認をしてもらうこともあるでしょう。私はとっても頑固な性格で,血圧も高く,エッセーの指導をされるとカリカリすることが多い生徒でした。私ほどでなくとも,自分で自信を持って書いた文章を貶されたり,他人に思考方法を矯正されるというのは良い気分はしないと思います。すなわちエッセーを上達させるためにはまず謙虚になること。いくら10年以上英語を勉強しているからと言っても,英米人がそういう表現をしないのであれば,英米人に従わなければいけません。冠詞と前置詞には何年経っても泣かされますよね。指導される方は,例えば,「ここに書いてあることはとても面白そうなことだけれど,もうちょっと教えてもらえないか」というふうに,「君の文章は面白い」と声かけすると,その学習者は自分で文章を書くのが好きになると思います。そして何よりも,学習者が文章の指導を受ける際は,黙って文章を差し出すのではなく,たくさん質問をしてセッションを主導し,改善点を多く得ることが目的なのです。

 あるいは上級生になってゼミに参加するようになったら,互いの論文を批評し合うワークショップに参加することもあるでしょう。その際は私は他人の文法や文体を指摘することはありません。ときに親切心で文法を見てくれる人に出会うときはありがたいですが,それをすると前に進まない場合があります。ゼミよりももっと小単位で個人で付き合う場合は,互いの才能に惚れ込んでいる人とワークショップした方がいい場合が多いです。不必要に貶したり,貶されたりすることは,学問に対するモチベーションを下げます。「論文の体裁をとってない」ならば論文の体裁を取れていない思考の滞りがあるのだろうと相手を慮る精神が必要です。人文学で友達と競争しても仕方ないでしょう。相手の成長に関わる,Collegialなコミュニケーションをゼミナールで身につけられると良いと思います。そして,ある程度,相手が批判を受け入れる用意があるときに,指摘するのです。

 本稿では単一の一次史料の分析文を1週間で書く方法をお伝えしました。これが枚数が増えても各パーツの部分が長くなるだけで,本質的にすることは変わらないはずです。特に歴史で一次史料の批判的読解を怠ると,本当に内容の薄い論文になってしまうことをもう一度強調しておきたいと思います。批判的というのは「面白いことを探す」「褒める」ことも含んでいます。内容をそのまま信じ込まずに,自分の頭で,第三者の視点で考えてみる,ということです。論文を書くのはとてもエキサイティングな作業です。そしてそれはまた,絶え間なく歴史を再解釈する作業の一翼を担う責任ある作業でもあります。また歴史の論文をまとめることが,汎用性の高い能力であるということもお伝えせねばなりません。どうしても,数ある情報から価値ある情報を析出し,他人に伝えるという絶え間無い作業は,現代人全てが悩む情報だと思われますから。

 

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引用文献

大澤 真幸,2013年,『考えるということ:知的創造の方法』,東京:河出文庫