生活の簡潔さについて

著名な社会学者がまず宗教に着目する理由は個人生活のシステムが露わになるからであろう。修道院規則,比丘の戒律など,宗教者が理想とする生活の美が法として定められていて,それが千数百年のあいだ不変な伝統としているというのはある意味で奇跡である。また,その千数百年もの間に裏打ちされた持続可能性は理に適っているというほかなく,人間の組織の強靭さの現れでもある。こういった宗教生活にはだいたい必要最小限度の資源を最大限に使い切る精神が必須となる。ひとりの教祖がこれほどの社会生活を考え抜いたとは言い難く,まさに長年の蓄積と淘汰,あるいは,時代を超えた人間の知恵の宝庫である。

 

まさに3週間前にアパートの家賃をクレジットカードを払ってしまい,先週には予想だにしない急性アレルギー反応で救急病院を無保険で訪れたせいか,限度額を超過してしまい,カードが使えない状態となった。このままニューヨークで10週間暮らす新居での生活を開始せねばならない。手許にある現金は100ドルであって,カードの支払い情報の更新は6日後。私はカツカツの生活をしなければならなくなった。4年間,両親に十分甘えさせてもらったので,私なりに結構追い込まれていたのだ。生活用品を最小限買うだけで,そうとうお金が減るものだ。幸い近所に八百屋と精肉店があるので,なんとか食べる物はありそうだ。残り45ドル(1ドルは現在130円くらいか)。この6日間でなんとか倹約というものを否が応でも学ばなくてはいけないことになった。自分なりにこれは大事な経験だと分かるので,すこし自分の内情を含めて記録しておきたいと思う。

 

さて,まず倹約生活には幾つかの方法があるらしい。先に挙げた宗教的生活はもちろん,人間の必要最小限度の暮らしのエッセンスが詰まっている。私はまず定番のリンゴとバナナと緑茶の3日分を部屋に買い込み,倹約暮らしの知恵を無料のWi-Fiから仕入れることにした。そう,最近流行りなのは「ミニマリズム」「断捨離」といって,物増やさずシンプルに暮らす知恵で,私の友人も結構知っていた。非常にうまく禅の文化の要素を抽出しており感心した。だけれど,私にとって今,捨てる物がそもそもない。これは精神的に非常にいい事実であった。私は続いて,曹洞宗の根本道場である,吉祥山永平寺福井県)の修行の様子を見ていた。彼らの暮らしは確かに非常にシンプルである。ただ,世の中の多くのミニマリストがあまり気にしていない事実があるように思った。それはシンプルな生活の裏にある非常に複雑な作法や規則である。

(1)曹洞禅の道場である永平寺の場合

だいたい僧院の朝が早いのはある程度周知の事実だろう。朝4時に起床の鐘が鳴り,布団をしまい,洗面する。洗面でさえも一杯の桶のぶんの水しか使用できない。配分された水を大事に,顔のどの部分から洗えば効率が良いのかとか,洗面台をきれいにする水がもったいないと唾や痰を洗面台に落とすことも禁じられているとか,その徹底ぶりはすごい。それから6時まで座禅,寝ている雲水(新入りの僧)は警策でひっぱたかれる。その後本堂で朝のお勤めをしたあとに小食(しょうじき・朝飯)として,雑穀の粥,沢庵漬,そして少量の胡麻塩が「応量器」という黒い托鉢器に配給され,全員揃って食べる。そのときに漬け物を齧る音も含め,少しの音響も許されない。食後,白湯が粥の器に配られ,食器についた食べ物を沢庵漬などをつかって拭い,3種すべての器に移し替えつつ,その最後の湯まで綺麗に飲み干す。そのあと必死に清掃活動をし,再び座禅。私には恐れ多過ぎる面があるが,人間のあらゆる美学が詰まっていると直感する。

 

とくに宗教を学ぶ身として見ると,興味深いのはその徹底した規律が醸し出す二重性である。永平寺を訪れるとおそらくその暮らしぶりに驚嘆して,人によっては落涙することもあろう。実際,とても美しいのだ。しかしながら,こういった道場という特別の場にとって,多少の無理は免れない。無理をする空間に一種の「聖」の感覚が宿る。今でこそ,精進料理は寺どうしで競争するほど,栄養バランスが考えられ俗化しているが,昔の映像資料を見ると実にビタミン不足(脚気)に陥っている雲水が多い。私は高校時代,柔道に打ち込んだが,道場というところは他者に弱みを見せたら叱られるところで,それが私が柔道をやめた理由の一つになったため敢えて言うのだが,こういう修行道というのは無理を買ってでもするところに魅力がある。とくに身体のエネルギーを振り絞ったこの種の修行は,現代生活の頭でっかちの矛盾をうまく説明するところから,多くの修行者が惹かれるのかもしれない。ただ,私が気になるのは,現世あるいは俗世からの距離である。実際,娑婆にいる私が修行したら,あらゆる矛盾を感じずにはいられないため,文句を垂れることだろう。修験道に身を置く人々を尊敬し,聖域一帯の文化を尊崇することに変わりはないが,何らかの批判精神が私の中に沸々としたことは別に付しておきたい。

 

(2)南極大陸の調査にかかわる食料資源管理

わたしの場合は非常にこれに近い。南極では限られた食糧を持ち込み,管理して,使い切ることが強いられるという。南極で働く料理人が先日テレビに映っていて,その調理法を解説していた。まずタンパク源としての肉を1-2キロ購入して,また別箇にビタミン源である野菜を入れるという考え方だそうだ。日本では肉は逆に高くつくので,卵や豆腐などを考えれば良い。一週間で4人家庭7,000円で生き延びる方法,という何とも私にとってはタイムリーな番組だった。その料理人によると,その買ってきた肉を一日目に一気に加熱するという。番組では鶏胸肉を買ってきていて,まず身と皮に分け,脂肪分の多い皮の部分でスープだしをとり,肉は簡単な唐揚げなどの揚げ物になっていた。そしてその一日目の晩は揚げ物が御菜になる。残りを真空パックにして冷凍していて,一週間活躍することになる。また,スープだしがかなり万能なのである。トマトを潰して加えればトマトスープ,味噌を入れれば上等なみそ汁になる。野菜はその献立に応じて使い切る。ただ,ひとつ文句を言うと,この7,000円中に米やパン,調味料が入っていなかった。この方法を採用すれば,私は生き延びられない。しかし,「高くてもタンパク源を取らないと良い栄養バランスにはならない」というのは素晴らしい教えである。

 

(3)ドイツの一般家庭の倹約方法

ドイツ人は日本人の2周3周まわった先の倹約家だというので,各種留学生,派遣員のブログを読んで,記憶に残った部分を記しておきたい。ドイツ人の倹約の特徴はややアメリカに共通するのだが,「不味い食事に文句を言わない」というアドバンテージと,先進的な環境政策国として「シンプルな物を最後まで使い切る」という矜持にあると思う。目を疑ったのだが,彼らは朝飯と晩飯に火を使わない食事,つまり冷製のハムチーズ,ピクルスを挟んだだけのサンドイッチを毎日食べているというのだ。こういう固めの食感のパンと加工品をストックしておけば食事が済むというのだから,食費がほぼ定額になる。食にこだわっていてはだめなのか。ソーセージを温めるのもレンジで済むことだし,このソーセージ倹約法はなかなか美味しそうだ。ただドイツやアメリカは日本よりも,肉も野菜も花卉も安価であるということを覚えておいていただきたい。

 

さらに目を疑ったことはドイツ人が「単調な食事,単調な暮らしに飽きない」あるいは「毎日違う物を食べた方が疲れる」といっていた事実である。これはどうも北西ヨーロッパ全域での共通事項らしい。彼らはまた,散歩や登山,自転車を趣味にする人が多いらしい。有給休暇や厳格な定時出社が一般的で,さらに自然を愛するがゆえに,毎週のように家族で出かけられる,というなんとも羨ましい社会である。経済も日本より好況なくらいだそうだが,彼らはプライベートな時間を,勤労時間と同程度に重要視し,住環境に最大の投資をするという。そして衣・食の部分を抑える。プライベートな時間を「ゲミュートリッヒ」(自分が社会に縛られず自分でいられる)と表現する彼らだが,食に関心がない,というのは私には一種の能力とさえ思える。おなかが空かないのか。ただ,運動というのは一つの手段だろう。身体が疲労するとあまり食べられないものである。

ドイツの国民経済と曹洞宗の道場は,社会ルールが非常に多いという意味で共通しているが,一方は徹底的な個人主義的管理,もう一方は滅私的な集団管理という意味で相反する。ただ,倹約というのは「文化的風土」も考慮に入れねばなるまい。ここアメリカで曹洞宗的なことを再現するよりも,ベーコンと卵を食いまくった方が安い。社会を見たときに,どういうものを安く売っているのかという観察は参考になる。ただ,経済的に逼迫した今見るアメリカと,悠長に寮生活をして勉強だけしておけば良かった時代のアメリカとはかなり景色が違うものなのだ。(綺麗事のようで言いはばかれるが)人生経験として重要だ。

ただ,いま何を人間として学ぶべきかというのは,「物」というものが持つ可能性である。今までそんなに美味しいと感じてこなかったピクルスも,いまでは宝石のような輝きを帯びている。緑茶でさえ味わい深い。人間はそれを活かしも,殺しもさえする。たとえば,それでこそ曹洞宗の料理法は非常に奥深く,「典座(てんぞ)教典」という奥義になるほどだ。シンプルな食材の料理法を変化させて最後まで楽しみきる。しかし,この魅力はある程度,経済的に逼迫しているから分かる,というものだ。私はここまでお金に弱いのかと思い知るのは,不甲斐ないきもするが。

 

そして,最後に結論したいのは,私は空腹感を忘れていたということ。そして,空腹というのは,程度の差はあれ,そんなに悪いものではない。私などはとくに,空腹感の欠如は若者として恥ずかしい思いさえする。空腹で眠れないこともあるが,全身がなんとなく温かくなっていることがわかる。私は今まで食べ過ぎていたのかもしれない。そういう発想の転換で済むうちはなんとでも言えるが,数日前の悲壮感はもはやない。体脂肪が燃えてくれたら言うことがないのだが,今はすべての境遇を甘んじて受け入れるほかない。そういう自己防衛本能だけが今は気を紛らわせる安定剤になっている。人生は心音以外,解釈にすぎない。本望の学習意欲に影響しないことを祈る。