人文学に生きるための方法論

私が人文学系の道を選んだのは,いま思えばもっとも自然な選択であったようだが,このことを高校生のときの自分に分からせようとするのは至難といえる。特に,人文学部卒の職種はとてつもなく広い。将来のイメージが湧かないというのは,もはや世界の常識になりつつある。私の高校でも文系の花形は社会科学や法学で,理系でも「手に職を」という動きはこの不安定な世の中でよく見られた。だけれど,たとえ法学や経済学を学んでいても,その知識を活かして生きている人は少数であり,また,文系であっても数学が疎いながらもやらねばならない日がくる。たとえ,歴史学を専攻しても,法学の本や経済学の本は読まないとならないし,逆も然りである。むしろ,文学部のような学部の方が,いろんな学問を自由にできる気がする。たとえば,科学哲学をやったあとに高校物理教科書などを通読した際に,何らかの思想を記述から感じる。ニュートンの打ち立てたプリンキピアを読むと,一種の全能感や恍惚さえ覚えた。法学や物理学などよく体系だった学問は,最初は辛いがとても爽快である。だが,この快感は「専門家ではないゆえ」得られる。もっと摘まみ食いを学部生のときにやっておいたら,と今でも後悔することがあるが,比較的,宗教学部はいろんなディシプリンを跨ぐことができた。神学などは人文学的知ではおよそ成り立たない。神学を聞いていると,思想のエンジニアリングであるとさえ思えることがある。(敬虔さに欠けた表現だと認めるが。)本稿では,自戒の念をこめて,私が耽溺した学部時代の学習スタイルを恥ずかしながらまとめておく。

 

(1)基本的な骨格

 

人文学をやっている者が普段していることと言えば,「読むこと」と「書くこと」である。そう,誰もが学校でやったことがあり,好きな人は会社に勤めても時間を使ってやっていることである。ただし,学者は超人的あるいは変質的にこの読み書きをやっていて,読み書きの鍛錬を先導する役割もある。ものすごい臭いのする発酵食品を「旨い」と言って頬張る人間が信じられないのと同程度に,他人の人文学はなぜそこまで楽しいのかは分からない。それが普通だ。

私が学部で勉強していたとき,この単調な作業を一生続けるのかと思い,つい身震いした。小難しい文献を下線を引きつつ読み,小さな問いの数々を空白に書き込み,要約文をノートにまとめて,自分なりの分析を加えてみる。そして授業で他の生徒と討論。討論が終わったら,論点と論脈を自分の分析に対向させ,自分の問いをさらに膨らませる。そして出来ればだが,再度文献を通読する。これが精読の基本作業である。これを一生やるのにも,さらに工夫がいる。

この学習サイクルを気をつけて見てみると,くどいようだが,読むことと書くことの均衡がとれているか,ということが一番重要である。よく理系に進んだ友人が,歴史の暗記は殊にしんどい。文系は暗記ばかりしているのか,といった疑問をぶつけてくるが,少々気障に聞こえようとも,私は次の返答方法が好きだ。「歴史は記憶するものではなく,記憶にかんする学問だ」ということ。このことは多くの高校生が勘違いしているし,高校教師さえ,受験の歴史の悪弊ゆえか,思いっきり教えることが出来ていない。学士院にいるような大先生が,学界の政治的バランスを考えつつ200ページほどのいっさいの一次史料の出典を省いた教科書を書き,高校の生徒はそれを試験の答案用紙の上に再現していく。(これをなぜ歴史教育というのだろう。)全然興味がない人だと,あの事実の羅列は意味不明な暗号で,それでもあの大量の固有名詞を分からないと文句垂れつつ,テスト直前にノートに書きなぐって覚える。これはとてもしんどい作業だ。(解決方法はあとで述べる。)

 

知識のインプットがしんどいというのはある意味,生理的現象だろう。暗記というのは扁桃体と海馬というところが行っているらしいのだが,痛みに関係するらしい。なにも知らない赤ちゃんが,蠟燭の火に触れて「熱い」と思い,「二度と火に触れないでおこう」と暗記するように,扁桃体は生理的なストレスを受容し,海馬はそれを知識として蓄積する。要はこの世の全ての知識はトラウマ(心的外傷)なのである。よって,記憶というのは,記憶しようと思ってするものではなく,「忘れたくても忘れようがない」ものだ。人によってその記憶すべきものは本来違うはずなのに,みな画一的に教科書を覚えさせるような方法では,原理的にその歴史的な知識ではなく,教科書で学習したことがトラウマになってしまうという,笑えない冗談のようになってしまう。

 

そのためにアウトプット(「書く」あるいは「話す」作業)が歴史のみならず人文学では必要だ。今の高校生が可哀想なのは,このアウトプットをほとんど許されないからである。よくある論述試験(300-400字)も結局,事実の羅列を期待されている。トラウマや多くの心的エピソードを処するためにとられる手段は「対話」であり,実際に心理カウンセラーがやっている療法も時間を制した日常会話である。書き,そして話すことは,だから,読み続けるために必須なのである。ユーモアに転化できるとなおのこと良い。笑い話というのは他人に話すために覚えておける。そして,高等学校でも教師の無駄話のほうが生徒は覚えているものだ。だから,読む時間と書く時間,両方とも要するし,これらのバランスが崩れると,精神に変調を来すことがある。

 

授業準備以外の残りの時間は自分のプロジェクトのために充てる。だいたい今は電子ジャーナルが主流で,私もよくJSTORやProQuestを使っているが,ジャーナル読みの基本的なコツは印刷をしないことである。ワードプロセッサを小枠にして開き,通常のようにノートを取る。やはり基本は変わらない。まずは完全な文献目録のための出典表記を完璧にしておいて,その下から該当ページを付記しつつ,箇条書きを施していく。ノートで一番大事なことは,自分の分析と他人の論理を混ぜないということである。あとでクレジットを確保するために,面倒であっても出典をノートに毎度書いた方が良い。こうして書き留めたノートがすぐに役立つことはないだろう。しかし,1ヶ月後のある日,かならず既視感となって戻ってくる。そのとき,ようやく読書が知識の蓄積として実るのである。

 

この「読むことと書くことのバランスを考える」という教訓は,スランプに陥ったときに非常に有効なのだ。誰にも調子悪いときは存在し,症状としては「字が読みづらい」「書こうと思っても,なにも思い浮かばない」「言葉が訥々とする」「他人のしゃべり声が不快だ」という感じ。勉強以外にも食べ物や運動も考えた方が良い。食べ物はやはりラーメンばかりではいけないし,有酸素運動は一週間に3回以上した方が良い。アスリートのように,アカデミシャンにも生活の基礎的な縛りが必要である。(3節にて詳述)

 

(2)哲学,歴史,文学の基本的な違い

 

哲学と歴史と文学は基本的に「読み書き」という意味でつながっている。大体これら3科目の教授室に訪れると壁一面,書籍で埋め尽くされ,教授はどこにどんな本があるのか見当がついているものである。基本作業も前記のように変わらない。精読作業ではかならずノートを書き,その蓄積をもとに論文を執筆する。では,なにが異なっているのか。人文学には一次文献と二次文献という考え方がある。いわゆる原典と研究書の別の言い方だ。この哲学・歴史・文学の違いはこの一次文献の取り扱いの違いである。よって,たとえばドストエフスキーの『罪と罰』で哲学論文,歴史論文,文芸批評論文,それぞれ可能である。おおよそ,哲学者にとって文献は「高見台」,歴史家にとって文献は「材料」,文学評論家にとって文献は「芸術作品」である。そして,文献の使用数は必ずしも論文の質を規定していない。

 

哲学にとって材料は必要ない。他人の意見なんて「あるだけ邪魔」ということもある。よって哲学者にとっての読書は「ステップ」である。何かについて読書によって知識を得ようという態度で哲学など出来ない。読書は単に取っ掛かり探しであることが多い。待てよ,この世にはたくさんのプラトン学者,カント学者,マルクス学者はいる。そう,ある思想家の解釈で一生費やすこともある。しかし,それは哲学史や思想史の仕事と呼ぶのが妥当だろう。わたしが本当の哲学者の文章を読んだという感想を持ったのは,カントの『純粋理性批判』だったと思う。読んでいたのがちょうど学部一年生のとき,福音主義者のような宗教教師に反感を持ち,なんとかアカデミックにやっつけてやりたいと目についた本を濫読していた際に出会った。自然神学の反証を読んでいるとすこぶるファイトが湧いた。18世紀のプロイセン(今はロシア領)でこれを発言したらもっと敵を増やしただろうと思う。当時の神学者が「あるとあらゆることの原因は遡れば神の意志が関わっている」と主張したのに対し,カントは「じゃあ遡って見なさい」と言う。「因果は遡ることには遡れるものだが,それを神だと貴方が主張なさるだけで,神なんていうものの一般的証明をなにもできてはいやしないのだ」と,痛快であり透徹していた思考に惚れ込んだ。カントは私の暫時のヒーローだった。

 

そして,歴史は「記述」が軸の学問である。よく言うように,「歴史から教訓を学べ」「歴史を繰り返すな」ということは歴史を学んでもいっこうに分からない。人間が正しかった覚えが歴史上ないわけだ。そして単一の歴史などなく,歴史というものは「書きよう」によるものだ。このある時代の「書きよう」の研究を一般に歴史学という。作業の流れは基本のものを依然として踏むが,一次資料(史料)の分析は歴史の材料である。ある紙切れに残されたメモを読み,誰が誰に何のために何を伝えるために書いたのか。そこから導かれる人間の過去の姿とは何か。昔,何があったのか。また,それらをどう記述するべきか。歴史の純粋な疑問とはそういうことである。歴史学の博士論文を読む機会が多いのだが,確かに取り扱っているテーマは特定されて狭い。しかし,その狭い狭い分析的な,覗き穴のような対象を読んでいくと,大洋のような広がりを持った風景がある。それが本当に美しい。単に4世紀の思想家をするのに4世紀の言語と文化を学べば博士論文が書けるわけではない。こういった「時代を書く」という作業には,大量の文献のゴツゴツしたコラージュではいけない。世界文化村のようなジオラマには,時代観を感じない。やはり人類3,000年以上の歴史にきちんとした想像力がなければ,たぶん4世紀の重要思想の価値はほとんど読んでも分からないだろう。その道のプロは文章の内容だけで何世紀半単位の思想かをおよそ見当がつく人がほとんどである。煌びやかにも悲愴的にも書けるわけだが,叙述に責任を持つための研鑽のため,歴史学者は「時代」を知るものならば,なんでも手に取ることを選びゆくことだろう。

 

そして文学が一番時間がかかると思った方が良い。文学は一次文献を「芸術作品」として扱うのである。芸術作品,というのは「ただ言葉がそこにあることを愛する」という第一次的な美を扱う。もう今までの文章力でとうに現れていそうなものだが,私は文学的な素養というものに惹かれたのは大学生になってからである。正直が一番ということで,私は中学のときは小説を読むのが一番苦痛だったことを告白しよう。小説を読むというのはまことに時間がかかる。体力や知力が要る。しかしたとえ最初の30ページで頓挫し,終わりまでが絶望的となっても,焦ってはいけない。人と較べたり,親や教師に強制される読書ほど苦痛なものはない。ただ,同窓の中ですごく文学の「勘」がある人は道ゆく風景につれて,軽やかなナレーションが口を伝って出てくる。良い言葉を話すことに彼らは歓びを見いだしている。とても彼らには近づけない,という畏怖の感覚も出てくる。わたしはこのように長らく,文学というものは才人がやるものだと思っていた。ここで私の読書体験の希薄さを開陳するようだが,私の文学体験は宗教の勉強をしてようやく入り込めたところが大きい。現代文芸のやりたいことがテンで分からなかったのである。だが,聖書というのは,法典や預言のところ以外は全て物語であって,その物語からの解釈を逸話(エピソード)としてみんな知っているところがある。バガヴァット・ギーター,オイディプス王オデュッセイアなど,私はもっぱら学問の型をつける段階で「資料」として読んで,それが面白かった。(これはいわゆる邪道なきっかけで聞くに堪えないが)私にとって,文学の時間は人間の「心の標本」を見る時間だった。心の個性を最大限に引き出し,共感を得る方法を探る。まだ未熟なものがこれ以上文芸について語るのも罪作りなので,冗長な文句は遠慮するが,人と較べたらだめだ。孤高を行こう。だって,国語や文学の試験の点数ほど不正確なものを考える方が難しい。

 

以上は,人文学の主要な科目についての概要である。私の能力ゆえに,記述に偏りがあることを認めておかねばならない。ただし,なんでも学部時代にやってみたという感覚を記しておきたくなったのである。ただ,神学部はそもそも,人文学部さえも疎まれる時代に生き,そして歴史家を志す今言いたいことは,こんなに役立つ学問はこの世にない,という一点である。述べたいことを簡約にまとめ,信頼に足る情報をより効果的とするため整序し発信し,知的財産を敬愛する態度は,コミュニケーション沙漠には受け入れられないというのか。

 

私は寮で4年間同室だった親友,サファールがいる。タジキスタン出身の同い年で,大学2年生の夏,ロシアを一緒に1ヶ月ほどかけて旅行した。アメリカの,悪く言えば短絡的,よく言えば社交的なコミュニケーションとは違い,首都モスクワの学生もサンクトペテルブルグ行きの鉄道で出会った親子も,さすが詩の国,詩情あふれる言葉の使い手だった。当然文化のイディオムによる違いにもよるだろうが,思っていないようなことを言わない美徳がある。訊きたくもない「ハウ・アー・ユー」を濫発して気分を害するようなことはないし,教養のある人ほど,礼節を重んじる。見ていると,地下鉄や鉄道で老若男女問わず,読書に耽っており,日本の通勤電車を思い出して,とても嬉しかった。当然,血気盛んな若者が大音量のロックを携帯で鳴らしたり,公衆で乱暴や差別的発言をしたりする輩はどこにでもいる。だが,ロシアのスカーフを巻いたおばあさんが3人寄ってたかってそういう輩に説教をし,驚くことにすんなり受け入れるのである。(実は公安当局なのではないかとさえ思う。)こういった場合,日本やアメリカだったら余計暴れ回る心配をしなくてはならないが。この風景をみていて,人文学の没落を特に社会正義の側面から危惧する。社会に生きるということは文脈的なもので,大切なことは何も実際に書かれていない。だからこそ,言葉で説明し,朗々とし,文化を護るひとびとを私は尊敬している。

 

(3)人文学と生活リズム

 

つまるところ,自分自身をはぐくみ,研ぎすませるのが人文学を志す目標であったりする。なにかの知識を社会に役立てようという即戦力・専門知識には到底なりえない。したがって,語学などを除いて,人文学を知識として伝授することは難しい。「読め!書け!」である。ただし,こういったことを教えるのはどこか野暮である。読み,書くことは教えられなくても,自分で頑張って身につけなければいけないことだ。「どうやって読むのですか。どうやって書くのですか。」という種の質問は誰もが心に抱いている。誰も答えられないのがオチである。それどころか,そういうときには,答えが心の中に既に現れていることがある。やり方のコツは時と場合によるし,そもそも自分で見つけた方がいいことが多い。そのヒントを探しに明日にでも本屋に立ち寄ったらどうか。筋力増強や長距離走とその鍛錬方法が似ているのは,継続がものを言うことかもしれない。本節で紹介するのは,やや個人的なものであるが,筆者本人も模索中ということで勘弁願いたい。継続のコツは知的飢餓/憧憬を積極的物理的に作り出すことである。

 

情報統制。ビッグデータを扱える時代だからこそ,信頼に値する情報を選択する能力は必須であって,欲を言えば,正確に発信する能力は生きる希望につながる。私は数種のメディアに偏りなく接することを心がけている。ここで私は新聞を二紙以上購読した方がいいと言っているのではない。クラシカルにノートとペンと原稿用紙というときと,SNSなどで周辺の情報とつながっている時間のバランスをとるということである。私はラインを使っていないが,あの巨大スタンプ集めの流行には乗り遅れた。今は絵文字を使っていないメールは怒っているという印象さえ残すらしいが,練習のために私は絵文字を使うのをやめている。それと同じ要領で「とても」「すごい」という言葉を使わないようにしているが,とくに語彙のレパートリーが増強した。文章の言葉に奥行きをもたせるために,簡単な言葉を理由なく使わない。それと同様に,インターネットに触れないでいる時間は人生に必要だ。Wi-Fiを切る時間を2時間から始めよう。時間がゆっくり流れ出す。100ページ読んで,ああまだ1時間しか経ってないのか,と嬉しくなると思う。(読む速さは考えていません。)

 

経済統制。私は書籍にかんして,両親に申し訳が立たないほど浪費している。よって,どの口がいうかという話だが,大学院に入ってから,ここからが本番というときに,自分の家庭がどれだけ無理をしてきたかを悟った大馬鹿者なのである。それなりにいい成績をキープして入りたい大学院に入ることはできたが,大学生のときに感じていた「学生さん」という感覚は大学院では全くない。私の周りで,大学でも親類からの援助を受けられず,器用に倹約している人たちを知らなかったわけではないが,無償の奨学金が出ていたこともあって,真剣に考える機会が物理的になかった。知的に貪欲でありつつ,物資を倹約するというのは難しい。倹約は学習以上に理性を行使する。私も自分なりにお金のことを考え始め,それなりに節約しているが,総合的に見て,生活は改善している。過去の自分を責めるつもりは毛頭ない。今,堅調に学習環境が保てているのならそれはそれで良いと思うけれど,早起きしてできるだけ早い時刻に一日分の食事を自炊して,身体を日中大きく使って,緑茶をあおり,夜8時間ほど眠ると,生きる喜びを感じる。これを家族のために毎日やっている方々には敬服するほかないが,経済的に必要なモノだけで暮らす,というのは学問の継続と大いにつながっている。

 

情報と経済統制という,なんともコミュニストな考え方だが,倹約は購買行動だけではなく,最後まで使い切ることにミソがある。冷蔵庫のものを腐らせないために三日間同じ物を食べる,書籍を読み通すまで,他に手を出さない。何でこんな簡単なことを今までやってこなかったのだろう。自省の念は尽きないが,石の上にも三年というからには,なにか目標を見つけたい。

 

日本に生まれ育って,私が幸せ者である理由は,質実剛健の精神文化がきちんと根付いていることである。私は恵まれているというのを言葉では分かっていても,食っていけないということは体感しなければ,見当がつかない。ただ学費が想像以上に高く,考えざるを得ないのである。ただ,こういう物質欲はカラダを作って,労働することで結構紛れるものなのだ。そしてそういうとき,知恵もよく働く。野菜を食い,走り,本を読む。今はしばし,そういう自分に陶酔しなければやってられない。ああ,そうだとも。私は無知で愚鈍で大袈裟かもしれない。ただ人生と格闘するべき時間を過ごすことは栄誉だ。どんとこい。